ここから書くのは記事は古いですが、書いたのは2011年8月です。

朝日新聞2010年11月16日(火)夕刊
フジ子へミング「追憶の風景」パリ
…シュバイツァーは「人生の苦しみから逃れる方法。それはネコと音楽」と言ったけど、本当ね。

※最近のBS:NHKの番組にもあったが、猫に多大な影響を受けた芸術家は多いようである。

朝日新聞2010年4月22日(木)夕刊
〜芸術三昧!赤川次郎〜
(過日亡くなった井上ひさしの芝居に触れて)役者に「演じる喜び」を与えたという点でこの人以上の人はあるまい。

5月6日夕刊〜芸術三昧!赤川次郎〜
今も続く、「日の丸、君が代」強制の問題を、笑いというレンズを通してみせた、「歌わせたい男たち」と同様、永井愛さんの新作「かたりの椅子」は、日本人の中に潜む一体化志向と、事なかれ主義をみごとに描いた秀作である…中略…鋭い問題意識と面白さ、そして人間への眼差しの温かさで、永井さんは亡くなった井上ひさしさんの後継者と言える。

※大学時代に井上ひさしの直木賞受賞作「手鎖心中」に感銘し、その戯曲に憧れて芝居の世界に足を踏み入れた役者としては、感慨深いものがある。
永井愛さんの芝居には、私もほとんど同意見である。
2001年は、やはり青春時代の憧れだった、つかこうへいさんも亡くなった。
私にとっては大きな二人だった。

2010年5月11日(火)朝日新聞夕刊
池澤夏樹〜終りと始まり〜「水俣と沖縄の長い夜」
「…香港は1997年に中国に返還された。99年間の租借は永遠ではなかった。沖縄の基地には期限がない。すでに99年の3分の2を超えようとしている…中略…密約は隠されていたが、水俣病や普天間の実態はずっと以前から報道されていた。知らなかったとは言って欲しくない。みんな遠巻きにして見るばかりだったのだ。一億分の一まで拡散した責任はもう薄すぎて感じられないのだろうか。」

※自分の一人芝居のテーマにも”責任”を置いている。日々の出来事の中でも、自分が事件の矢面に立つような責任感を全うするような人間が少ないのが常々気になっていた。
しかし私だって、どこまで責任を果たしきれているのか?ましてや沖縄の問題までは…。
一億分の一まで拡散した責任の薄い感覚は耳に痛い。

「立川流鎖国論」立川志らく/2011年1月に読む。
私は落語家の存在意義を次のように定義づけた。
『ほかの芸能が見過ごした屁のようにくだらないものに命がけで挑み、その屁で客の魂をわしづかみにする稼業』

※これは意見としては面白い。具体例が欲しい。
ただしこの著書では他人の悪口が多い。書いてて楽しかったのかなあと疑問符が湧いてしまうのだ。

朝日新聞の元旦社説に対して
週刊文春記者の“翼”は、2010年1月

「いざというときに日本を一緒に守る安保と、憲法9条と巧みに組み合わせる選択は、国民に安心感を与え続けてきた」とまで書いているのは、時代の変化を感じると共に、鳩山外交の危うさを象徴している。(ちなみに、読売は現状の日米関係を全て肯定している)

※これを更新している時点で2011年2月なので、鳩山総理はもういない。菅さんも危ない。
日本はどうやって自分の国を守るのだろう。国益を守り、追求するのは悪なのか?

長塚圭史。週刊文春のインタビュー記事にて。2010年1月
「今までのジェットコースター的な話とは違うものを書きたかったんです。最近考えているのは、すごいのはもしかしたら観る側の頭の中なんじゃないかということ。僕はセリフを書くのが好きだからついつい書きすぎちゃう(笑)。でももっと観客に“余白”を残してもいいのかなと。演劇に何が出来るのか、その可能性を追求したいですね」

ちなみに、長塚圭史はイギリス留学の先輩である野田秀樹を“演劇で何が出来るか、演劇を確実に変化させようとしている方”と言っている。

※”黙っている時こそ喋っている”というのはイギリスで一人芝居を再確認した時の実感であった。
そして確かに野田秀樹は、有言実行の行動派だと思う。国際交流の積極的な架け橋になっている。

赤川次郎。朝日新聞夕刊2009年10月29日(木)
三毛猫ホームズと“劇場に行こう!”〜命がけで書く〜より


フランスの哲学者サルトルが、第二次世界大戦時のドイツ占領下ほど、自分が自由だったことはなかったと言っていたことがある。占領下では、自分の書く一つ一つの言葉が生命の安全を脅かしかねなかった。「命がけで書く」というその覚悟がサルトルを鍛えたのだそうだ。
今は権力を批判しても拷問され殺されることはないが、そうなると、むしろ現実から目を背け、内にこもってしまう書き手が多いようなのはどうしてだろう〜井上ひさし「組曲虐殺」小林多喜二の芝居から関連して〜

※私も「組曲虐殺」は観ました。小林多喜二に言わせた”心の中の映写機がカタカタなって、それが小説を書かせる”というような名台詞もあり、なるほど井上ひさしは今に至って貧しい人間の正義や魂の叫びを書きたいのかと思わされた。ちょっと教条的ではあるのだけれど…もっと喜劇らしい井上喜劇を観たいというのは、ファンの欲目なのだろうか…

2009年7月8日(水)朝日新聞夕刊
ドイツの舞踊家、故ピナ・バウシュへの追悼文の中で


…「人がどう動くかではなく、何が人を動かすかに興味がある」と、ピナはよく語った。喜びや絶望の極みで、人が言葉を失うとき、身体はどのように動き出すのか。この問いが常にダンサー、振付家としてのピナの背中を押していた。

※「何が人を動かすか」という言葉から、私は「お芝居では、台詞を言うより、台詞を聞く方が大事だと思う。つまりなぜその台詞を言ったかが大事」とか「演じるときに考えるのは、どうするべきかではなく、どうしたいかである」なんてことを普段から感じているのを思い出した。ま、「どうすべきか」を考えなくちゃならないこともあるけど。

2009年7月1日(水)朝日新聞。対談「裁判を変える」より
映画監督の周防正行&弁護士の今村核


周防「裁判員制度の『守秘義務』も問題です」
今村「3年後に制度を見直すことになっていますが、裁判経験者の意見を聞かずにどうやって見直すのか疑問です。特に、評議で裁判官がある方向に議論を誘導したかどうかといったことの検証は、守秘義務を解除しないとできません。3年後に見直すためにも、今すぐ守秘義務規定は見直すべきです」
周防「せっかく市民を参加させながら、市民の意見は反映されにくい制度設計になっていて、市民はバカにされています・・・裁判員が『分らない』と言えば、裁判官は分るように説明しなければならない・・・僕は『分らない』という勇気を持とうと思っています」

※裁判員に選ばれたら、その評議の過程は、たとえ家族にでも話してはいけないことになっているのは有名だ。その守秘義務が、こんな足かせになっているのである。理想としての裁判員制度には賛成だが、やはりこんな穴が沢山あるのであろう。何より、被疑者や被疑者の関係者に怨恨を持たれるのが非常に危険だと思う次第である。
それにしても裁判員制度は始まってしまったが、裁判員に対する報道の集中取材は何なのだろう?もちろん本人の許可を得て、逆恨みの可能性のない被告の審理を選んでいるのだろうが、これから裁判員のプライバシーが守られるとはとても思えない。しかも第1号裁判は控訴されてしまった。こうなると裁判員の努力は無駄である。
裁判員制度の理想は認めるが、穴だらけの制度である。







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