2006年1月の劇団ラッパ屋32回公演のパンフより

四十にして惑わず、というのは大嘘だ。僕は四十を越えてますます惑ってばかりいる。思えば三十代前半のころが一番強気だった。僕の意見に反対する人は「ばっかじゃなかろか」と思っていた。いまは自分が「ばっかじゃなかろか」と思っている。人や世間を知れば知るほど弱気になるのである。自分が無力で弱い存在に思えるのである。
最近ではラーメンよりタンメンが好きになった。あれもなぜか弱弱しい印象の食べ物だ。乳臭いスープと茹でたもやしが、心と体に優しい気がする。ラーメンが体育会系ならタンメンは文科系。漱石の「それから」の感想などを繊細な言葉で語り合いたい。
松岡正剛さんの「フラジャイル」(ちくま学芸文庫)は「弱さ=フラジリティ」について論じていてとても刺激的だ。この中で松岡さんは「強さは弱さよりエライわけではない」というようなことを言っている。むしろ弱さは複雑だからこそ弱いのであって、強さより繊細で奥が深い、と弱さの味方をしている。心が弱く惑ってばかりの僕には頼もしい意見だ。無理して強くならなくていい、と言われたようで気が楽になる。
「あしたのニュース」には、心の弱い人々が何人も出てくる。弱さゆえ、ズルをし、流され、過ちを犯し、新聞ネタになったりする。その悩みっぷりや迷走ぶりを笑いながら、何かひとつでも細やかに、心に残るものがあれば嬉しい。
(劇団「ラッパ屋」作・演出の鈴木聡)

※公演の前にこれを読みながら、ものすごく納得してしまった覚えがある。もう芝居を観なくてもいいやと思うほどだった。
さらに私は50を過ぎても惑っているのである。

2007年1月のWeb Site「えんげきのぺーじ」より
上記の弱さの名文に引き続き

1/ 3- 1/31「ロープ」(NODA・MAP )@シアターコクーン −感想− 01/12 僕は弱いのでこの素晴らしい何かに対して、きちんとコメントできません。ただ言えることは現代に生きる僕らに本質的な揺るがしようのない何かが伝わりました。ただ、ただ、感服です。あと、アンサンブルの人が豪華版。カムカムやスープの中堅が担い超贅沢。 (佐藤治彦)

※これは超演劇好きな経済評論家としてTVでもお馴染みの佐藤さんの一行レビューのコメントである。自分が弱いことや、コメント不能であることを素直に認めている点がエライ!
何より匿名ではなく、自分をさらけ出しているのがエライ!
他の好き勝手なWeb site評論家は、無名性の中で暴論を吐いたりしているのである。
是非、佐藤さんの表現集団である”経済とH”も観に行こう。

2007年1月13日(土)朝日新聞「私の視点」欄より
憲法改正”9条”「理想論」で悪いのか


ー前略ー憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。変転する現実の中で、政治家が臆断に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである。当の政治家が、これを現実に合わぬと言って批判するのはそもそも、盗人が刑法が自分の活動に差し障ると言うのに等しい。
現実に「法」を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」に敬意が払われない社会の中では、「法」はいつでも「理想論」なのである。
(平川克美、リナックスカフェ社長)

※近頃かまびすしい憲法改正論議の中で、これは分かり易いぞ。「法」の根拠が確かめられた。
しかし同じ新聞記事の中で筆者も言っているように”国論を二分するような政治的な課題”には、どちらの側にもそれなりの言い分と欠点や矛盾があるのでやはり難しい。
正直言って私には確固たる結論がまだありません。ただ上記の文を読めば基本の”憲法”だけは、理想論でいいと思える。

上の記事と同じ日の朝日新聞欄より
不二家問題「お客様第一」では不十分


ー前略ー商品を買うお客様を大事にする必要はあるが、第一は、買ってくれない人も含めた「消費者」であるべきだー中略ー お客様と考えると、買ってもらえそうなきれいなパッケージと売り文句で工夫することになるが、消費者と考えると、どうしたら誠実で、本当に分かって選んでもらえる表示かを工夫する義務がある。そうすれば、仕事のミスや問題を隠そうという発想は出来なくなるはずだ。
(日和佐信子。雪印乳業社外取締役)

”消費者”というものを、そう捉えるのには感心した。なるほどそうか、買ってくれない人のことも考えなければ。事実現在の雪印の製品モニターには、あの事件以来雪印の製品を一切買わない人も含まれているという。
きっと目先の観客ばかり気にしている役者にも当てはまることであろう。客観的な眼を持たなければ!

五木寛之の紀行文「半島から東京まで」
引揚者としての”朝鮮”の記述より


前略…私たちはいわば圧制者の一族として、朝鮮半島にあったが、その中にも、日本本土における階級対立のステレオ・タイプはそのまま存在した。貧しいゆえに外地へはみ出し、その土地で今度は他民族に対して支配階級の立場に立つという、異様な二重構造がそこにはあった。
植民地における支配民族としての日本人の中にも、二つの階級が存在していたことを考えなければ外地体験を語ることは無意味だろう。…中略…外地で死んだ大半の引揚者日本人は、貧しく苦しみながら生きていた階級の人々が多かったという事実、そして特に私が感慨深いのは、外地においてその地の民族に対して最も苛酷であったのは、それらの日本における被圧迫民衆であったという事実である…貧しいものはより貧しいものが敵であるといった無気味な真実を、私は幾度となくながめてきた。

※この本の中には、朝鮮からの引き揚げ途中にソ連兵に連れ去られたり、自ら身を挺して仲間を助けた悲しい女性たちの記述もある。国の為にと死んでいった特攻隊の人たちも辛い記憶だが、名もない彼女らも日本や仲間の為に身をささげた人たちであることに焦点が当たってよいと思う

2007年の朝日新聞[天声人語]春の頃
経済小説のパイオニア、城山三郎の死に関して

…17歳だった城山さんは、忠君愛国の大義を信じ、海軍に志願入隊した。そこで一部の職業軍人たちが愛国者の顔をしながらいかに醜いかを知る。理由もない体罰、ひっきりなしに振るわれるこん棒。兵士が芋の葉をかじる時、士官たちは天ぷら、トンカツを食う。演習の時、河原でのんびりしている牛を見て、牛の方がいいと思った。
「大義名分のこわさ、組織の恐ろしさ。暗い青春を生きた証しとして、それだけは書き残しておかねばならない。そこから私の新しい人生が始まった」。
城山三郎の「旗」という詩がある。
「旗振るな/旗振らすな/旗伏せよ/旗たため・・・
ひとみなひとり/ひとりには/ひとつの命」
旗一つで人をあおり、絡めとるようにみえる組織的な動きには、死の直前まで反対の声をあげ続けた。
「戦争で得たものは憲法だけ」とも述べたという…

※大義名分(たとえば戦争)の、何と恐ろしいことか。

マイク・リー監督「人生は、時々晴れ」の新聞評より

「普段口に出さない思いを伝えたくなる傑作!」おすぎ
…前略…私が凄いと思ったのは、愛や家族というものの姿を、その裏側に潜んでいる”孤独”と一緒に描いているでした。
日本の家族や夫婦は、普段は愛しているかどうかなんて話をしませんよね。ところがふと、自分は本当に愛されているのか、必要とされているのか不安になることがある。そんな気持ちを口に出さないことで、誰もが人間関係を崩さないよう暮らしている。でもこの映画は、そんな暗黙のルールは破らないといけないと気づかせてくれました。
映画ってただの娯楽じゃなくて、人生にとって重要な示唆を与えることだってできるんです…

「雲の切れ間に見えた奇跡の瞬間」久世光彦
…主人公のタクシー運転手が、その日乗せた老女が車の中でオナラをしたと話す場面は、奇跡を見たように私の胸に響いた。不治の病にかかった息子が、身をよじって笑ったのだ。
この長い物語の中で、家族たちが笑ったのはこれが初めてではなかったか。気持ちのいい風が彼らの部屋を一瞬吹き抜けた…この一家は、明日またいつもの日々に逆戻りかもしれない。だが<ペシミズム>の向こうの空に、雲の切れ間が見えたのも確かだった。人生の嬉しさは高々こんなものなのだろうが、それこそが人生の奇跡なのであることを、この映画の中に見るのだ。

☆マイク・リー(イギリスの映画監督。「秘密と嘘」で1996年のカンヌ映画祭のパルムドールを受賞。事前に台本を用意せず、半年間にも及ぶ役者たちとのリハーサルを通じてストーリーや人間関係を作り上げる)


※2007年4月の週間新潮の読書コラムにも書いたが、ほんのささやかな幸せや喜びを感じるだけでも、人生の価値があるのだと信じたい。でも人間の欲望は止まらないし、偉い人でも庶民でも既得権は手放さないし…。でもささやかな”現在”を見逃してはいけないのだ

2006年のベストセラー「国家の品格」藤原正彦著より
1.自由について
自由と民主主義の中からヒットラーが台頭した理由を精神分析学者エーリッヒ・フロムは、心理学的にこう分析しています。
「自由とは面倒なものである。始終あれこれ自分で考え、多くの選択肢の中から一つを選ぶという作業をしなければならないからである。これが嵩ずると次第に誰かに物事を決めてもらいたくなる。これが独裁者に繋がる」。ヒットラーは独走したというより、国民をうまく煽動して、その圧倒的支持の元に行動したのです。民主主義、すなわち主権在民を見事に手玉に取った、稀有の手品師でした。

※”自由になると寂しいのかい”という吉田拓郎の歌もあったが、自由でいるためにはいつでも孤独な闘いを続けなければならないものなのかもしれない。でないと他人の手品師や自分という怠け者にやられてしまうだろう。

2.平等もフィクション
私は平等というのは、欧米がひねり出した耳当たりのいい美辞麗句に過ぎないと思っております。近代的な平等の概念は、王や貴族に対抗するための概念としてでっち上げられた・・・この平等が、王国貴族の支配がなくなった今日すっかり意味を変え、人権がらみの言葉となりました・・・もちろん差別ほど醜態で恥ずべきものはありません。この差別に対して平等という対抗軸を無理やり立て、力でねじ伏せようとするのが、闘争好きな欧米人の流儀なのです。

※へえー成る程ねえ

著者はさらに続ける
日本では差別に対して対抗軸を立てるのではなく惻隠をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道の精神です。

※この著作の力点は武士道精神の復活である。
日本人にこれまで差別意識がなかったとは思えないが、理想の精神としては受け止めよう。要は外面だけの「平等」に騙されないようにとの戒めである。

これも2006年のベストセラー「美しい国へ」安倍晋三著より

映画「ミリオンダラー・ベイビー」が訴える帰属の意味について
監督でもあるクリント・イーストウッド演じるフランキーが女性ボクサーのマギー(ヒラリー・スワンクアカデミー主演女優賞)に贈ったガウンに書かれた”モ・クシュラ”はアイルランド人が使うゲール語で「私の血、私の愛する人」という意味だった。

※安倍晋三は評論家の言葉を借りて自身もアイルランド系であるイーストウッドがこの映画で描きたかったのは、アメリカのナショナル・アイデンティティだと指摘している。中国人も韓国人もヒスパニックも、アメリカをすでに「理想の国」であると考えて移民したが、アイルランド移民だけはアメリカを「理想の国」に作り上げようとした。だからこそアイルランド系移民の子であるケネディ大統領は、いつまでもアメリカの星であり続けるのだ、と。
黒木 登志夫(がん研究者)2008年2月22日(金)朝日新聞夕刊
「人生の贈りもの」欄。著書は「人といのちの文化誌」
…村上春樹さんは「ノルウェイの森」で「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と書いています。病気も健康の対極ではない。病気になるかどうかの危ういバランスの中、健康に留まっているに過ぎない。健康は病気を、若さは老いを、寿命は死を内に含む。そこを考えて生きれば、いざという時に人生をポジティブに生きられるのです。

※私も50歳を過ぎ、父と母を見送ると、さすがに“死”というものを考えざるを得ません。でもより良く生きるためには、常日頃からそこを意識すべきなのです。武士道というほどではないにしろ、ある覚悟を頭に置いておくべきでしょう。上記の言葉は、そんな自分にある勇気のようなものを与えてくれます。

朝日新聞の春の「天声人語」欄より。“若い世代は漢字力が不足”
1974年のこの欄に「秋も段々深まりました。姉も段々色づきました」と、“柿”と“姉”の書き間違いの手紙の記事が載っていたそうだ。この欄の筆者は「祖父」を「粗父」と書いて、先生から“お年寄りを粗末にするな”と叱られたそうだ。 ※(どちらも面白い挿話だと小宮は思う)
日本語に精通する数学者ピーター・フランクルさんが故国のハンガリー語に言及していると記事は進む。“ハンガリーにノーベル賞受賞者が多いのは、ハンガリー語は難しいから”なのだそうだ。氏の論は“子供にとって母国語が難しいのは恵み”と。戦後すぐの『漢字廃止論』とは正反対の視点に「天声人語」の筆者は不肖ながら一票を投じている。

※筆者は日ごろパソコンを常用しているらしい。同様の私も、この頃“漢字忘れ”が甚だしい。ただでさえ人の名前や固有名詞を忘れがちなのに。郵便物には一筆添えて、時々は手書きの手紙を書く癖もつけることにしよう。残念ながら、執筆原稿や企画書などの書類は、修正と仕上がりがきれいなので、全てパソコンに頼った方が無難な私だから。

2008年5月5日、朝日新聞スポーツ欄。
元広島カープ“鉄人”衣笠祥雄の「鉄人の目」より


若い頃、多くの先輩に教えられた言葉がある。「偶然良い結果は出ることはあるが、悪い結果に偶然はない。考えれば必ず原因が見つかる」

※4月の巨人の不振の原因に言及した書き出しであるが、私には自分への戒めとして充分に手応えがあった。原因をいたずらに外に求めず、内を見つめよう。
2008年6月30日の朝日新聞夕刊
池上彰の「新聞ななめ読み」より

ー同新聞の夕刊コラム「素粒子」で鳩山法相を『死神』とした表現にー
〜他者を批判するのは大変なことです。新聞がすべき批判には2種類あると思います。ひとつは本来すべきことをしていない人や組織に対する批判です。社会保険庁に対する一連の批判がそれに当たるでしょう。もう一つは、してはいけないことをした人に対する批判です。談合や汚職がその例です・・・中略・・・(鳩山法相は本来の業務内にあるとして)・・・中略・・・他者への批判は、結局自分に返ってきます。「お前は、そんな偉そうなことを言えるのか」と、常に自問自答。くたびれます・・・今回「素粒子」の筆者は、読者からの多数の批判を受け、「批判される立場」の辛さを痛感したはずです。今後は、自分が批判する相手の「批判される痛み」に想像を馳せた上で、「温かい批判」をすることを期待します。

※元NHK「週刊子供ニュース」のお父さん役キャスターであった池上さんは、難しいニュースも分かりやすく読み解いてくれる。『そうだったのか現代史』などの一連の著作シリーズも私は好きだ。このコラムも毎回愛読している。
この”批評に対する批評”も、優しくて深い。
つまらなくて冷たいだけだったり、誰かを持ち上げるだけの提灯記事だったりする演劇の劇評を読む時の嫌な味を思い起こした。不条理演劇であろうが、人情喜劇であろうが、舞台の創作者や表現者たちは”何とか面白いものを作ろう”と努力している。だったら劇評家も、”読んで面白い”記事を書くべきである。
私のこの批判も、温かくなければ(^0^)

2008年7月3日(木)朝日新聞夕刊/秋元康「夢中力」
立川志の輔さん”数え切れない自己主張が元気をくれる”CDショップにて

志の輔さんはあらゆるジャンルの音楽がすきであり、LPやCDを選ぶのが好きらしい

「好きなアーティストの曲は全部聴く。表現の幅が分かるから。それは人生とともに出来上がるもの。広ければ広いほど感銘を受ける。自分の感情と向き合った証だと思う。」

※大学の落研の先輩でもある志の輔さんには、いつも驚かされるが、この言葉も凄いなあ。とにかく徹底的にこだわるのだなあと愕然とした。忙しい中で、それを追求する時間とエネルギーを搾り出すだけでも大変だと思う。聞けば、どんなに酔っても、どんなに遅い時間でも、寝る前には落語を一席稽古するという。この人の意志の力は偉大である。
そんな人が、なかなか煙草を止められないというのも面白い。きっと止めたくないという意志なのではなかろうか(^0^)
2008年7月14日(土)朝日新聞夕刊
『笑う門には副でっせ』大阪の笑いの精神C「桂枝雀、爆笑王」より
枝雀は落語のオチについて、客の快感の受け方によって「ドンデン」「謎解き」「へん」「合わせ」の四つに分解できるという理論を打ち立てた。「笑いは緊張の緩和」とも言った。
爆笑王の突き進む先に何があったのだろう。31年前に理論を聞き、共感しあった落語作家の小佐田定雄(56)は「笑わすでも、笑われるでもない、まだ誰も達したことのない、お客さんと一緒に笑い合う境地だ」と思う。

※自ら選んだ突然の死から早や10年になろうとしている。最近CDで聞いた「つる」も爆笑ネタであった。英語落語にも精通していた。凄い人であった。オチの分析を紐解いてみたいと思う。私なりの”謎解きである”








  [トップ][プロフィール][近況報告][舞台歴][海は友達][掲示板]
[こんなもの描きました][こんなもの書きました]