2004年6月4日(金)朝日新聞夕刊
「私のチェーホフ」井上ひさし”人間は生きたがっている”
・・・前略・・・スタニスラフスキーの結論によれば、こうである。「チェーホフの劇の登場人物たちは生きたがっている。ただひたすらに生きたがっている」
・・・中略・・・チェーホフの時代の主調音は、流刑と流血(テロ)と圧政と暴動である。落胆と絶望がその主旋律だった。そしてこの二つから生まれた疲労と憂愁の歌が人びとの毎日を灰色に染め上げていた。その暗い1880年代と90年代に、チェーホフは朗らかに現れて、笑劇や喜劇の方法で人びとの心の内に深く入って行き、医療や学校建設の仕事を通して人びとの願いを聞き、結局のところ、人間は生きたがっている、ただそれだけのことなのだという真実を発見したのである。
行きたいと思えばこそ、人間は笑劇じみたドタバタ騒ぎを演じ、ときには人生の落とし穴に自分ではまっていやいやながらも悲劇の主人公さえ演じてしまう。そういった人間たちの生き方、死に方を冷徹だが温かくもある目で見つめながら、彼は人生の、その真実を書きつづけたのだった。
・・・中略・・・私(井上ひさし自身)としては、万人に通じ合う大切な人間の感情をたがいに共有しあって、他人の不幸を知っていながら知らんぷりをしないと説いたチェーホフを信じ、ユートピアとは別の場所のことではなく自分がいまいる場所のこと、そこをできるだけいいところにするしか、よりよく生きる方法はないということを信じるしかない。
実を言えば、三人姉妹にはこの覚悟が欠けていた。彼女たちは別の場所モスクワに憧れるあまり、いまいる場所を軽んじ、ほとんどすべてを失ってしまうのである・・・後略。

※私にとっては難解なチェーホフが少し分かった気がする。さすがに井上ひさしは難しいことを分かり易い言葉で説明できる作家である。
チェーホフの多くの登場人物が、ちっとも働こうとしないのはこんな理由だったからである。彼らの愚かさを淡々と、しかし優しく冷めた目線で書いていたのであろう。
特に太い文字で示した個所が、劇中人物たちの愚かな生き方なのだと思う

2004年9月26日札幌千歳空港に向かう飛行機の中
機内誌で見かけた養老孟司のエッセイ「人に教えるということ」より

・・・前略・・・講義の下準備を入念にしていったのを覚えている。あとから思えば、あれがいちばんいけない。用意したことをしゃべろうとすると、自分が疲れてきてしまう。話にリズムもなくなる。聞いている相手を前に話すというのは、その場その場のハプニングでなければ不自然だ。準備するなら、それをプリントして、学生に配っておけばいい・・・
中略・・・自分でなるほどと納得した話を伝えると、相手もなるほどと少しは聞くようになる。自分が本気で考えていることでなければ話せないし、通じない。これが、人に何かを話すときの僕のコツ、というより原則である。

※実はこの日、北海道の洞爺湖の青年会議所の講演会に向かっていた。議題は「48歳の留学」、ロンドンの思い出話である。
もとより重厚なテーマも結論も持ち合わせていないので、この年になって留学しようとした経緯や楽しいロンドン土産話をしようと思っていた。そのことなら最近では「接見」凱旋公演や明大落研同期の落語会の経験で多少は自信があった。でも講演となると慣れている訳でもないので準備をある程度は用意しておいた。渋谷のライブハウスでシュミレーションのトークライブもやっていた。
そんな折にこの文を読んで改めて納得したのである。私自身もわざと話をラフに構成して、練習し過ぎないように努めていたのである。いつもなら準備しないと気が済まない真面目さを敢えて捨てて臨んでみたりしていた。そういう自分を楽しんだりしていた。
「バカの壁」の作者も同じような結論を持つに至っていたと知ったのが愉快だった。
太字の個所が、言い得て妙である。

これは皆さんが人前で話すときの参考にもなるであろう。
さらに付け加えれば”上手くしゃべろうとしない”というのもコツである。言い間違えてもいいやという気持ちで人前に立てば気が楽になり、少しは上がり性の予防にもなるだろう。
2004年9月30日(木)朝日新聞夕刊
小池真理子「フランソワ-ズ・サガンのいた時代」より

・・・私はサガンから洗練の何たるかを学んだ。真の洗練とは、人生における否定的要素をいかに軽やかに表現できるか、ということに尽きると思うが、サガンは絶望や孤独、裏切りや心変わり、人生の悲劇をあくまで淡々と、突き放すようにして優雅に明晰に描き続けた。私にとっては目を見張るばかりの新鮮な作家であった・・・

※以前にも小池真理子さんの記事はここで取り上げた。
その時は人間の愛と孤独に関して明解な答えを導いていた。随分引き込まれたのを覚えている。
今回のこの文も素敵だ。実は太字の個所を私は解明し切れていないのだが、何だかカッコイイ!少なくとも、あまり洗練されていない人間の私には響いてくる。
出切れば誰か具体的な説明を加えて僕に解説してください。上記の井上ひさしのように教えてくれれば、私も”洗練”を理解できるでしょう。真の洗練とは、人生における否定的要素をいかに軽やかに表現できるかの深意も分かるでしょう。

2004年9月30日付の週刊文春より2題

まずは映画監督スタンリー・キューブリックの逸話
文春図書館の書評から
・・・他人のことは全く気に掛けない無情の完璧主義者の一面を示す証言・・・マルコム・マクダウェルは「時計じかけのオレンジ」に主演したが、目を閉じさせない器具を使われて、角膜に損傷を受けた。「突撃」「スパルタカス」で主演したカーク・ダグラスがマクダウェルに偶然会ったとき、キューブリックの印象を尋ねると、マクダウェルはキューブリックがこう言ったと語った。「シーンの撮影を続けるぞ。もう片方の目は大事にする」

※芸術家というのは時として想像を絶する行為をするものだ。芥川龍之介の「地獄変」では、絵描きの男は娘を乗せた牛車が炎に包まれる光景を見ながら筆を走らせる。それは小説だとしても、事実だって凄いことは起こっているのだ。
私が加藤武さんから聞いた話では、黒澤明は「天国と地獄」の撮影の時にモノクロフィルムでは汚いドブ川がなかなか上手く表現できずに、遂には横浜のある川を墨は流す、ゴミは流すで本当にドブ川にしてしまったそうである。人間の本質を突き、自然の大事さを描いた人でも映画の為なら自然を破壊していたのである。そう考えて思い出すと晩年の映画「夢」で、笠智衆が演じる老人の側に流れていた緑の小川は、本当に緑の染料で染められていた気がしてならない。ゴッホの絵のイメージの為に麦畑は勝手に使われたはずである。まあ、そのくらいする人でないとああいう境地には至らないのであろう。

続いて上記と同日の文春より
運動会という名の「バカ親の祭典」
ー撮影タイムあり、徒競走は勝敗なしー

・・・競技出場で空いた児童の席へ撮影目的で入り込む親を追い出したり、道を塞ぐ父兄らに「そこは通路です」と注意する係りを、六年生児童が交代で務める小学校も出てきた。
「教師や役員が注意すると逆ギレされるが、子供なら素直に従ってもらえる。本来なら手本になるべき父母が、子供に注意されて改めるなど本末転倒ですが、効果は高い。苦肉の策なのです」・・・

※ウーン、あきれ返るとしか言いようがない。
かなり昔だが、沖縄の離島ででダイビングをしている時に、島内の子供が作ったらしい壁新聞に感心した事があった。そこには「ゴミを絶対海に捨てないように」と明言してあった。ちょうどその壁新聞を見ていた私の側にいたのがその子供の親らしくて、しばらく子供自慢に花が咲き、私も何だかご機嫌を取ったりしていた。
耳を疑ったのはその後である。子供自慢とは裏腹に親の漁師達はビンやら缶を船から捨てているとあっけらかんと言うのである。地元の漁師とは意外にこんな面があるのである。悪いのは心無い都会の人間とばかりは言えないのだ。

さらに文春の言及は続く
・・・「ケガを恐れて、幼稚園側は子供に『無理をしないで』を強調。かけっこでも『転ばないように走ろう』と指導され、全員が早歩きのような奇妙な走り方になっていた」(福島)
「『園児を疲れさせない為に』の名目で、父母競技の方が多い。まるでどちらの運動会か分からなかった」(鹿児島)
「『ケガや事故の責任を終えないため、父母競技では本気で頑張らないで下さい』と、幼稚園側が事前に通告。当日はだらけたムードが蔓延し、真面目に競技する親の方が恥ずかしい思いをした」(千葉)

※昼休みには家族や近所の人と一緒にお寿司やお弁当を食べ、大人も子供も微笑ましくむきになって走ったりしていた40年前の自分の運動会が懐かしい。
一人足の悪い友達がいて、負けることは分かっていても彼なりに皆と一緒に一所懸命走っている姿は美しかったのを覚えている。


更に同日の文春にはこんな記事が
連載「にこにこ貧乏」山本一力

・・・長男は、中学のバスケ部に入部した。子供の口から、部長先生の方針を聞くことができた。
「勝つためにやる。楽しみたいという程度の者は、うちの部にはいらない」
素晴らしい方針である。
私は常から、子供の世界に見え隠れする『平等意識』に眉をひそめてきた。誰もが平等だといい、運動会の徒競走から順位を排除している。
「勝つだけが目的ではない。楽しむことが大事だ」
これを掲げて、勝ち負けにはこだわらないことを旨とする。
その考え方を否定はしないが、断じて同意は出来ない。
機会の平等は大事だが、結果に平等などあるわけがない。オリンピックは『参加することに意義あり』と謳う。が、参加選手には選ばれるために、熾烈な競争があるのは自明のことだ。
・・・中略・・・成長の過程に、ライバルの存在は重要だ。が、輝きと厳しさがあってこそのライバル。甘さは無用だ。

※いつも山本一力さんの文章は男らしくてすがすがしい。水谷龍二さんの世界にも通ずる所がある。
この意見も実に明快だ。その通りだと思う。
敗北や挫折を覚えて人は成長する。人生の厳しさを知る。それでも生きていく意義を見つけるのが生きるということだと思う。でないと心が脆弱で、結果的に大きな犯罪を犯してしまうような人間も出てくるのである。古い言葉を引き合いに出せば獅子は我が子を谷底に落とすのである。
これも随分昔になるが松井秀樹の甲子園連続敬遠四球の時に憶えた憤慨にも似ている。松井に全く打たせずして勝者になったチームの生徒には正しい勝利も敗北も刻まれなかったのではないか?地域や学校の都合であんな展開になったことは悲しい。本気で投げて打たれれば、あの時のピッチャーにも誇り高い敗北が残ったのではなかろうか。

2004年10月芸術座「おもろい女」のパンフより
ー『おもろい女』と『気むずかしい男』小田豊二ー

三木のり平さんは、大変に気むずかしい人だった・・・
※(という書き出しでこの文は始まり、自宅でのインタビューにお土産の焼酎を持っていけば怒鳴られ、持たなければまた叱られるという筆者の経験談がまず書かれている。そして森光子さんが、のり平先生のためにシャツを買ってあげたら『僕は、ズボンが欲しいんだよ』と受け取らなかった話が載っている。さらに筆者は続けるのだ)
・・・中略・・・
インタビューが終ったある夜、ふと目に入ったカレンダーに、赤丸がついた日付があった。僕はニヤニヤしながら三木さんに突っ込んだ。いつもいじめられている三木さんに、ひと泡ふかせるつもりだった。
「先生、あの赤い丸がついた日はなんですか。どなたかとデイトなんでしょう。」
すると、照れて白状するだろうと思った三木さんが青筋を立て、鋭い声でこう言った。
「馬鹿野郎、あれは今度、お前が来る日じゃないか」
・・・中略・・・三木さんは、玄関でいつも面倒くさそうに私を迎えてくれたが、本当は、私を待っていてくれたのだ、と思った。
三木さんが亡くなった数日後、私は再びご自宅を伺い、大事な遺品を見せていただいた。その中に、新聞記事を切り抜いて貼った数冊のファイルがあった。
中を開いて驚いた。
その数冊、すべてが「おもろい女」や「放浪記」における森光子さんの演技を絶賛している記事の束であった。その文章をよく読んだが、どれにも三木のり平の名前ひとつなかった。
三木さんは、森さんのことを好きだったのだ・・・
誰もいない広い家で、森さんのことが書かれた新聞記事をハサミで切り抜き、背中を丸めながら、糊でていねいにファイルに貼り付けている三木さんの背中を想像しながら、私は確信した。・・・後略。

※のり平先生の晩年の数年間に「放浪記」の稽古場を見学させてもらったり、一緒にお酒を飲む機会を与えてもらったりした。星屑の会の芝居も何度か見てもらっている。何の前触れもなしに開演前の本多劇場の楽屋に挨拶に来られて、ハローナイツの面々もビックリした思い出がある。
確かに聡明で、シャイな方だった。
居酒屋で隣り合わせたサラリーマンには気軽に声をかけるのに、私らには「お前らと喋っても面白くないし勉強にもならない」と、わざとぞんざいに扱われたりした。そうかと思えばハローナイツの芝居の後には、後輩の僕らに親しげに芝居の話をしてくれた。カラオケスナックではどんな人にも愛想を振るうが、「自宅で飲もう」と言われて四谷のお宅までお邪魔すると、着いた途端に「帰れ」と追い返されたりした。
話したがりと淋しがり屋なのに、東京風の照れが裏返しの行動を取らせていたのだと思う。これも日本人の恥の文化だろうか?
亡くなった数日後には私とラサール石井くんとで自宅にご焼香に伺った。のり平先生の大番頭だった寺田農さんが出迎えてくれた。
そして遺品の数々や写真や記事がていねいに貼り付けられている何冊ものアルバムやファイルを拝見した。のり平先生は大物役者には珍しい記録魔だったのである。
森光子さんの記事もそんな中の一冊だったのだろう。ただし森光子さんのことしか書かれていなかったというのが素敵ではないか。
このパンフの文章を読んで素直に”良い話だ”と思ったのである。
ちなみに筆者の小田豊二さんには「のり平のパーッといきましょ」という例のインタビュー本がある。喜劇好きなら是非一読をお薦めする本である。

2004年10月22日(金)朝日新聞夕刊
国本武春(浪曲師)の「オフ・ステージ」より

 ミュージカル「太平洋序曲」への出演が一つの転機になりました。この舞台は02年にニューヨークとワシントンでも公演したのですが、その時感じたアメリカのお客さんの音楽や舞台を楽しむ姿勢に大きな感銘を受けました。この国をもっと知りたい。そんな思いがふつふつと沸いていた時、願ってもないお話が。「文化交流使」として1年アメリカに行かないかと、文化庁から勧められたのです。
 もちろん二つ返事で引き受けて、三味線を二丁抱えて、03年秋に飛び立ちました。目指すは東テネシー州立大学。そこにはアメリカでも珍しいブルーグラス専門学科があるのです。ニューヨークでダンスレッスンするより私らしいでしょ。
 テネシーで落ち着いた先は一戸建ての家。芝生の広がる庭付きですが、家賃は東京のワンルームよろ安いくらい。到着したのが秋でしばらくは気づかなかったのですが、春から秋までは毎週自分で芝刈りをしなくちゃいけないんですね、これが。結構大変でした。
大学ではブルーグラスの実技・理論・歴史やストーリーテリングなどの講義を受けました。逆に週1回は三味線を指導。練習用の三味線を五丁、急遽日本から送ってもらいました。
 テネシー洲東部のアパラチア地方の人々は、とにかくみんな音楽が大好き。床屋でパン屋でコーヒーハウスでペットショップで、即興のセッションが始まります。
 中学の頃から親しんだブルーグラスですが、実は三味線での演奏経験はあまりありませんでした。でも、そんなことは言っていられません。バイオリンの若者やバンジョーのお年寄りに交じって私も参加。みんなは「何という楽器だ?」と三味線に興味津々です。「日本ではみんなそれでブルーグラスを弾くのか?」。そんなことをするのは私くらいでしょうがーーとにかく三味線は大人気。1曲演奏すると友達に、10曲一緒にやればもう親友です。
 音楽の素晴らしさ、人の温かさに包まれた夢のような日々が続きました。

※私と同時期に同じ立場で文化交流使を任命された国本武春さんの新聞エッセイ。アメリカでの楽しい様子がよく分かります。素直な良い文だと感じたので全文を紹介しました。特にラストの”夢のような日々が続きました”は私のロンドン滞在の気分とも重なるのでジンときました。
私は今後もイギリスへ「接見」や他の芝居を持って上陸するつもりです。武春さんにも是非今後のアメリカ展開を希望したいです。私もアメリカで芝居したいなあ。



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