「ポランスキーは、僕の監督魂に火をつけた」
山田洋次(2003年1月31日、朝日新聞夕刊)

映画監督には「作りたい映画」と「どうしても作らねばならない映画」がある。ポランスキーにとって『戦場のピアニスト』はおそらく後者だ。子供時代の恐怖の体験を、目に焼きついて離れない光景を、歴史の証人として語り残さねばーー。つらい作業だが、やらねば死ぬに死ねないーー。この映画のリアリティは、そんな彼の激しい衝動と高揚からきているのだろう。冒頭から、圧倒されるほどの気迫を感じた。彼は、長年の課題をついにやり遂げた。
僕にも、若いころから「作らねば」と思い続けてきた映画がある。満州引き揚げ少年として体験したあの戦争を、語り残さねばーー。この映画は、そんな僕の思いに火をつけた。
終戦直後、中国大連の我が家に1人のソ連軍進駐軍の将校が押し入ってきた。彼は父の蓄音機に耳を傾け、「ダスビダーニャ(ロシア語で”さよなら”)」と言って何も奪わずに立ち去った。その曲は、この映画と同じショパン。不思議な縁を感じずにはいられない。

こういう文章を書くときの山田洋次監督は大好きである。
”生きる人支える住職”2003年1月31日、朝日新聞夕刊
寺は葬式や法事のときだけのものではない、生きている人のためにある。<中略>
宗派は問わず、「皆の宗」という。

「皆の宗」はいい。ベタなギャグとしても使える。
この日は米コロンバイン高校の銃乱射事件のドキュメンタリー映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」のマイケル・ムーア監督の言葉「マーク・トゥエインも言ってるが、良質のコメディは怒りから生まれるものだ。」というコメントも気に掛かった。
「日本企業に興味はない」週刊文春2003年2月13日号
(中国人学生が日本の会社紹介の会場で色々と質問する)
「御社で働くとして、我々の権限はどこまでで意思決定はどこでやるのでしょうか?」
冷や汗を拭く担当者はこう答えた
「基本的には現地で可能です」
が、学生に
「基本とは何%?」とつっこまれ
「我が社はグローバル企業ですから、販売戦略の最終決定は東京本社で行います」

これは文化庁の在外研修の応募要綱を提出する時にも感じたことだが、公でも私設でも日本の組織の多くが意思決定の所在が不確かである。結局誰がそう思っているのか、そう決めているのかがはっきりしない。だから手続きに無駄な時間と手間が掛かるし、誰も得しないどころか不利益が生ずるのである。
ーひとり芝居「土佐源氏」を続けている役者、坂本長利さんの本よりー

☆ウソを発見して注意してやるのが演出家で、それを理屈でなくすぐに肉体で作るのが役者だ。そしてその役として言葉を発するのに適切な表現形態が生まれてくる。と今度はそれを大事に守ろうとする本能に押し流されて形骸化していく。そうなるともう生きた役者の表現ではない。いわゆる上手い俳優がつまらないわけは、その辺にあると思われる。
たしかに上手いのだが、守るから、見せようとするから、肉体が連続して躍動しないから、衣装の中からうごめくその役者の肉体が見えないからつまらない。技術というものは目立つためにあるのではない。絶えず活動し、切れることなく、現在(自分)との接点と火花を散らすところに成り立つもので、そこにうごめく現代に生きている役者の肉体がはっきりと見えてこなければいけない。

☆花も実もあるウソ八百と誰かが言った。
虚構の世界という真に不可思議な魔法の箱の中で、役者は真実をつかむ。

☆私の現実はーーーお客さまを前にして、可能な限り自分を使い果たすことだ。
可能な限り自由になって、可能な限り自分を試す、試みる。自分を養って大きくなりたい。それはお客さまを前にして、可能な限り自分を使い果たすためだ。

24年前に書かれたこの本を、同じひとり芝居を続けようとする者として読んだ。旅の日記やら何やら、参考になることは多くあった。中でも上の三つの文章は”役者論”として非常に興味深く納得できた。私も同じことを実感として言える役者であり続けたい!
”ブイヨンとだし”
「日本の味と文化」辻勲クッキングスクール学長の本より

西洋のブイヨンは肉汁や野菜を煮込んだものを、何十時間もかけて煮込みスープの元にする。それに対して日本のだしは昆布や鰹節を5分ぐらいあっさり煮出してだしを取る。そこだけに注目すると、日本は非常に時間をかけないシンプルな食文化のように思うが、実はその昆布や鰹節を作るためには1年以上自然の風雪にも力を借りて熟成している。
つまり日本の食文化は手間隙かけたものを、そう見せない。削ったり隠したりする文化だ。

ードラマ撮影中に旅館のスタジオセットに置いてあった本を手にとって読み始めたらこれが分かり易くて面白かった。この辻勲は文章もかなりの書き手だ。比喩表現がなかなか凝っている。撮影の待ち時間もあっという間に過ぎてしまった。もっと読みたくなる書き手だー
2003年3月29日(土)スポーツニッポン
「お笑いというのはウケない状態で続けられる強さがないとやっていけない。きまじめな僕のふまじめなところを見て、笑っていただきたい」
渋谷道頓堀劇場の舞台に20年ぶりに帰ってきた。もちろん私自身のコメント
2003年4月9日(水)朝日新聞夕刊劇評より
ー寺山修司の遺作「青ひげ公の城」パルコ劇場(山本健一)ー

・・・寺山演劇には四つの特色があった。反語的な美しさの漂うせりふ。俳優の肉体の存在感。国籍を超えた視覚美。そして現代の知を取り込んだテーマ。
こんなせりふがある。
「台本を人生で汚さないで」「何もかもだまし絵だから美しい」「個性はたかだかロウソクのあかり」
心理を微細に表現する術を「退行」とみなす。
こういうせりふは、俳優の存在感がなければ粒立たない。第2の妻役の三上博史が、あやしく官能的に担う。対照的なのがしょぼくれた舞台監督役の根本豊。華麗な虚構と卑俗な現実が対比されていく・・・


※寺山修司の表現は私には難解だが、この説明は分かり易い。山本健一の劇評を初めて素直に読むことが出来た。結局、私なんかは寺山の世界には不向きだということであろうか?
2003年6月6日(金)朝日新聞夕刊”オフステージ”
ー松居慶子(アメリカでも活躍するピアニスト)ー

・・・ネイティブアメリカンの女性から「科学者は人間の魂を計る道具を持っていない。音楽家はそれを持っている」という素敵な言葉をもらいました・・・
・・・人々が悲しみや挫折の中で、私の音楽に光を求めているのがわかります。会場で私の手をギュっと握りしめて「弾き続けなさいよ。やめちゃ駄目よ」と言う黒人のおばあちゃんの目に私は意識を新たにしたのです。
励まし、励まされ、私にとっての音楽は人間がお互いに頼りあう証のようなものでした。
アメリカは厳しく、寂しく、殺伐とした競争社会です。競争に明け暮れる一方で人々が親身な人間関係を必死に探しています。なんでこんなになってしまったのでしょう・・・

※芸術や芸能が何故あるか?何故私は演技をする者、表現者であろうとするのか?という基本的な問いについての一つの指針です。僕らの芝居やコントを見て、それに勇気づけられる人たちが少なからずいることと同じです。それに僕らはどう答えるのでしょう。いや答えると言うのもおこがましい。如何に僕らしく生きられるのでしょう?
松居さんはこう続けます
・・・考えてもしょうがない。私は演奏し続ける。待っていてくれる人がいるからピアノを弾きます。私でなければ駄目なんだ、と言ってくれる人がいるのですから。
因みに、国や国民がどうしてそんなに心が希薄になってしまったのかに上手い言葉を述べる術を知らない私です。でも松居さんのこのお話しのタイトルが”国境のない手紙”と題されているということは、世界で同じ悩みを大勢の人が抱えているということでしょう。
18行の「様式美」追求
ー演歌には様式美があるー
朝日新聞2003年6月14日、石川さゆりの演歌プロデューサーの言葉

ワンコーラス6行。3番までの計18行で物語の起承転結をつける。状況は語りすぎず、季節を織り込み、「寂しさ、苦しさ、明日こそはの期待感。 その3要素が底流にあること」
それを踏まえて描く男女の恋心。「耐える女を、男は単に放っているわけじゃない。『優しい言葉もかけられないおれだけど』と続く。いたわりと感謝があるんです。その愛情は時代遅れでも何でもない」
・・・中略・・・不倫がテーマの「宿もの」、引き裂かれた恋心を歌う「海峡もの」などを得意とする作詞家を選び、書いてもらう。いわば職人の世界。その作詞家の多くは60台以上の男性だ。
・・・中略・・・「鳥取砂丘」を手がけた作詞家は「女性が強い時代。男にすれば消えゆくものへのあこがれもあるんです」

さらに取材は続ける
演歌はどこから今にたどり着いたのか?「元は明治の自由民権運動のPRソング」
明治政府に反対する民権論者が思想を広めるため、庶民に分かりやすく演説を歌にした。それを演歌と呼び始めたという。川上音二郎の「オッペケペー節」もその一つだ。
・・・政府の弾圧で衰退・・・大正末期に「演歌」という言葉が消える・・・
演歌復活は昭和40年ごろだ。グループサウンズやフォーク、ニューミュージックと歌謡曲が細分化し、日本の伝統的な歌を再び「演歌」と言うようになった。「演歌らしさを求めるために、男と女の情念の世界ばかりになった」

※これがカラオケ全盛となり、50〜60台の女性の間で”聞くから歌う”の時代になった演歌の生き残っている理由である。
勉強になりますねえ
2003年7月29日(火)朝日新聞夕刊より
佐藤浩市「高原へいらっしゃい」で主演・・・の言葉から
「強い人間はあまり信用していないので。弱さやもろさを内在しているという方が心許せるし、そういう人間をやりたい。どこか壊れかけている部分が皆ある中で、一生懸命生きようとするのが、人の姿なんじゃないか」
「酒飲みって、確信犯なんですよ。酔っている自分に甘えられるでしょう」

※特に二つ目の酒飲み論は上手いこと言う。ただ酔って流されたいだけのことを、こんな風に言うと哲学みたいだなあ。
”浅草仕込み 座頭市見参”
2003年8月22日(金)北野武インタビュー
・・・タップの個人レッスンを6年間続け、ピアノの練習も再開。コラージュにも凝っている。
「芸事ってのは習うのが目的ではなくて、習うってことでいろんな知識が得られるのが面白い。理工系だからそれを因数分解したり微分したりして遊ぶわけ。でも、あれこれ手を出すのは、結局根がスケベなんだろうね」

※この前日劇団SETの若手のミュージカルアクションコメディを観に行って来たので余計に考えさせるところがあった。それはかなり上手にタップも踏んでいる舞台だったが、先輩たちの焼き直しにも見えたし、肝心のコメディの部分に新鮮味がない。芸事の素養はとても大事だが、何でもいいからこの人でなければならない何かが必要なのではないかと思った。彼らなりに完全主義に近い集団演技はワンパターンに陥りがちだ。そんなことを思ってタップや芸事のことを考えていた。やはり武さんは違うものの見方をしていたのである。
2003年8月27日(水)朝日新聞夕刊
「20代のカリスマ」作家の高橋歩さん沖縄の離島、池間島(宮古島の近く)に不登校の子供たちが魚業などを体験しながら学ぶ自然学校作りを始めた。(きっかけはフィリピンの自給自足の宿泊施設に泊まってから)
「嫌なことばかりに見える世の中も、結構おもしろいことを伝えたい」
「0が1になる。その過程を大切にしたい」

※これも特に2つ目の言葉。何もないところから何かが生まれる瞬間に立ち会うことの大切さ。それに改めてハッとする。昔、陽気なアダルトビデオの監督をしたときに、台本の段階から自分で考え始め、信頼できるスタッフと夢のような手作り撮影をしたときに非常に強く感じたことである。何かを作り出すというのは素晴らしいことである。出来上がったものに乗っかるのじゃ味わえない感動がある。
ただそのアダルトビデオはちっともエッチじゃなくてその業界的には失敗でしたがハハハ(^0^)
2003年、演出家の木村光一が率いる”地人会”の機関紙の9月号より
井上ひさし作「薮原検校」を観たある人の感想文から
・・・自分の息子が障害を持っているため、障害者と社会との共生という問題はいつも胸のどこかに引っかかっている。この問題は観念論や建前だけではどうにもならない。日本の大衆が遺伝子のように持ち続けているケガレ思想をどう飼いならすかという実践論が何より求められている。また、人間が自己の業をどう背負い、つき合っていくのかについても深く考えさせられた。

※確かに難しい問題です。これだけ示唆に富んだ感想を書けるのは、やはり常々そのことに心を砕いているからでしょう。
世阿弥の「風姿花伝」より
「老人」
老人の物まね、この道の奥義なり・・・中略・・・およそ、老人の立ち振舞、老いぬればとて、腰・膝を屈(かが)め、身を詰むれば、花失せて、古様に(古臭く)見ゆるるなり

ロンドンに行く前に、日本の芸能の基本のことを知ろうとして、古語で難しいが大雑把に読んでみた。
500年前の能の大家は年寄りを演ずる時の秘訣をこう言っているのだ。なるほどと思う。類型的に腰を曲げたりすれば演技が古臭くなると言っているのだ。そう類型的な演技からは凡庸な効果しか生まれないのである。
私ごとで口はばったいが、「淋しい都に雪が降る」の老ホームレスの役作りにも工夫が必要だった。
さらに大家は花がなくなると言っている。いかに年寄りを演じようとも、まさに”芸は華”なのであろう。この本では下品な演技を厳重に慎んでいる。
さすが!
2003年10月水戸芸術館
”シリーズ◎日本の劇作家たち”のチラシより
・・・シェイクスピアやチェーホフが時代をこえて観客を魅了しつづけているのはなぜか。それは、彼らの書く言葉と、彼らの描く登場人物たちをとおして、人間についての新しい発見があるからです・・・

※なるほど分かり易いぞ!”それは彼らの作品が普遍的だからです”などと表面的なことを言ってちゃいけないのだ。新しい発見だ!

・・・岸田國士(きしだくにお)は1920年にフランスへ渡り・・・「言葉」を美しく語る俳優に新しい演劇の可能性を見出し、そのためには劇作家は、音楽を聴くように「言葉」を聴かせるような作品を書かなければならないことを知ります。
「言葉の価値」と「日本語の美しさ」―岸田の数多くの戯曲の主題はそこにあります彼は日本の近代的な台詞劇を作った最初の劇作家であり・・・・・彼ほど真摯に「日本語とは?」「日本人とは?」を生涯問いつづけた劇作家はいません・・・

※”日本語”や”日本人”はやはりキーワードですね。そこから発想して偏狭的にならず広く海外にも目を向けつつ、自分たちの誇りも再認識しなければ。あ、表面的なまとめになってしまいました。悪しからず
いずれにせよ、岸田國士のことが少しは分かりました
2003年週刊文春10月16日号
斉藤孝の評による”「説教名人」市川房枝の場合”
「大衆の中にいて皆と同じようにふるまっていれば悪口を言われないですむ。しかし大衆の先に立って一つの主義主張を唱え、行動をすれば必ず悪口を言われる。したがって指導者としての資格は、絶えず悪口を言われ、批判されていることにあるといってもよい。・・・中略・・・自分が正しいと信じたら邁進してよろしい。最後は事実が、時が解決してくれる・・・」
私にはこの言葉は大変に参考になった。大概の場合、悪口は反論できない形で背後からおそってくる。やり場のない思いをしている時には、市川房枝の膨大な被悪口経験を踏まえた達観は、心の拠り所になった。

※当たり前のことのようだが、立派な方たちはそんなことを身をもって実感しているのだろう
2003年11月5日(水)朝日新聞夕刊
”三谷幸喜のありふれた生活”182回より
・・ユーモアというのは本当に難しくて「面白いことを面白いと思うセンス」と「面白いことを面白く言う技術」の両面が必要だ。しかし、なにより大切なのは「面白いことを言おう」という意志・・・

※そうですねえ。私を含めて、やはり何らかの形で”笑い”を追求している人々は多かれ少なかれ、こんなことを考えてますねえ。
劇団SETの三宅裕司さんは”ギャグはセンスと表現力だ”なんてことを昔から言ってましたね
2003年11月中旬のの週刊文春より
”入門書を超えた、作家による小説論”
「書きあぐねている人のための小説入門」保坂和志/評者:高橋源一郎
・・・小説とは何かについて、保坂さんは、こういっているように思う。小説とは何か、ということの答えを他人に求めてはならない、と。
つまり「小説とは何か」ではなく、「あなたの小説とは何か」が大切なのだ・・・

※コラム全般的には”1日に2時間、毎日原稿用紙3枚書けばよい”とかの方法論が書いてあったが、この部分はズバリ確信に触れていた。このことはどんなジャンルの芸術にも当てはまることだろう。いや、どんな職業でも当てはまるのではなかろうか
2003年11月26日朝日新聞夕刊
”三谷幸喜のありふれた生活”185回より
・・・時代が変われば、笑い、特にパロディはどんどん作りにくくなってくる。今や、てんぷくトリオのコントに登場した剣豪「荒木またずれ」が「またずれ」である理由を、二十代で分かる人はほとんどいないだろう。
でもここで「難しい時代になった」と嘆くだけでは、年寄りの愚痴で終ってしまうので、もう少し付け加えます。つまりはだからこそ、僕ら喜劇の書き手は、自分よりも若い世代が今、何を考え、何に興味を持っているかに敏感でなければならないのだと思う。彼らの新しい共通認識を知ることが、今に生きる「笑い」を作るためには必要だ。古い共通認識は、忘れられてもしょうがない。むしろそうでなくては、新しい笑いは生まれない。「荒木又衛門」氏には申し訳ないけど、そういうことなのである。

※保守的になってきた私の頭でもそう思う。少なくとも頭はそう思っている。特に台本作家は”今”や”今の言葉”に誰よりも敏感でなくてはならないだろう。なにしろ小説とは違って、すぐに役者が喋って演じなければならないのだから。水谷さんが飲み屋でたまに漏らすため息のような語りの中にもそれを感じる。時々筆を折りたくなることもあるようだ。表現者は、その点気楽でいられる。いられる時期がある。ただ後でしまったと思わないためには、我々も必死の対抗策を練っておかねばならないのである。
追伸
以前、唐十郎が川村毅の戯曲を評するときに使った言葉の中で
”戯曲というのは子馬のようなもので、生まれたばかりですぐに立ち上がらなければならない”というようなことを言っていたのが印象的だった。つまり戯曲は血や肉を持って、生きていなければならないのである
2003年12月13日(土)朝日新聞夕刊
”森光子「放浪記」完売の理由”より
・・・公演は1600回を超えたが、見るたびに細部が進化する・・・無言で立ちつくす森の体からは、東京での男関係や仕事で疲れたすさんだ色気と、郷里に暮らす初恋の男へのときめきが醸し出される。女の人生の変化を演じて実在感がにじみ出ている。
高い防波堤の上をげたで歩くシーンがあり、体を気遣ったスタッフが草履に変えたらと言うと「愛した男を草履で待てますか」と一蹴した。足といえば男の部屋の電気をつける開幕場面。若さとうきうきした気分を片足で演じる・・・

※三木のり平先生がご存命の頃、一度この芝居の稽古を見に行かせてもらったことがある。演出家のり平先生に緊張もしたが、初めて会うう私のような者にでも「お芝居を好きな人ならどんどん稽古を見に来てください」と気軽に声をかけてくださった森光子さんも随分印象に残っている。そしてとにかく若かったし繊細だった。
他の芝居を見ても唸ったことが何度もある。中日劇場で見たカーテンコールの姿にも感動したことがある。あの小さい体と両腕の中に2000人以上の観客がすっぽり飲み込まれているのが凄かった。


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